きょうは遊び心全開!大暴走しました。いや~大満足。
正午、おんぼろバイクにまたがり、太宰府にある九州国立博物館までツーリングしてきました。
意外に近かったです。我が家がある鳥飼から20キロありません。我が家から箱崎にあるローまでが10キロなので、1時間ほどちんたらちんたら走ってたら水木跡、都府楼跡に着いてしまいました。
水城も都府楼跡も自分の目と足で確かめたことがなかったので、かなり興奮してしまいました。
天智天皇が664年、前年の泊村江の戦いで唐新羅連合軍に負け、急いで九州防衛のために作らせた土塁あとが、水城です。
その高さ6m以上ある土塁の前後には水を溜めた壕を作っていました。その壕の水を引くための木製の土管(木樋もくひ)の現物が国立博物館に展示されていました。そして水城を作った時を再現したジオラマも。
水城を後にしてさらに進むと広大な平地が見えてきました。都府楼跡です。
この一帯はどこか奈良、平城京の雰囲気があります。どちらも広くて緑の芝が広がっていて建造物が巨大壮大大陸的なんです。
ある歴史家によると、大宰府という、大の字がつく役所名はじつは都、というか、行政首都という意味で、奈良の都と並ぶ権力所在地だったと言うことらしいです。そして太いと言う字の太宰府は、そのような役所、大宰府がある地域のことをいうのだそうです。
納得しました。だって、唐新羅連合軍に朝鮮半島で負けて、なんで10数キロもの水城を、太宰府を守るために造築しなければならなかったのか、それは太宰府が国家権力の中心地だったからです。
その歴史家によると、近畿の天皇家は九州にあった九州王朝の分家であり、大化などの年号も九州王朝が使っていた年号だったのだそうです。
わたし、相当好きなんですよ、その歴史家が。
しかも、太宰府という土地は海から10キロ以上内陸にあります。場所的には交易に不便です。では何故そのような場所に役所を設けたか、それは海から侵入してくる外敵を恐れたからです。すなわち太宰府はそれだけ重要な役所だったというわけです。
さらにその人曰く、魏志倭人伝に出てくる女王国は博多湾沿岸から糸島にかかる、姪浜一帯にあった。国歌である君が代は、博多湾沿岸の東の端にある地名、すなわち千代から、八千代、さざれ石、いわお、そして西の端糸島にある神社の祭神であるこけのむす姫まで、という統治領域を指す、とのこと。なるほどなるほど。
それはさておき、太宰府天満宮にお参りしたのはほとんど30年ぶりです。
でもでも、土産物売りの参道ってこんなに短かったっけ?それに、天満宮もこんなにこじんまりしてたかしら?
自分の中ではもっともっとどでかい神社、参道だったような気がします。その逆が西鉄電車の駅。まえはほんとにしょーもないおんぼろ駅だったんじゃなかったっけ?
それはともかく、汗みどろになりながら参道を歩き続け、本殿で参拝し、飛び梅を見、そして参道脇から太宰府園という遊園地へむかう道を日中韓3カ国文字による案内表示にしたがって3分ほど歩くと、長い長いエスカレータが見えてきました。
それに乗り、一気に上がると今度は動く歩道が。おお、楽ちん楽ちん。そのうえ照明がなかなか良い。
で、出たところが一面ガラス張りの超モダンな平面と曲線による造形物がどどーんと見えてきました。7世紀、10世紀からいきなり21世紀へワープしました。やるじゃん、と感心。
内部もかなり面白かったです。わたしは学生なので入館料420円がタダでした。
日本の旧石器時代から縄文弥生、、、、、という歴史が楽しかったです。
心を打たれたのは、縄文土器ははるか1万3千年もまえから作られていたこと、鹿児島の縄文土器の形と模様のなんとモダンなこと、火炎式土器の圧倒的な迫力とデザインの素晴らしさ、、、、
いやいや、めちゃくちゃ楽しかったです。本当にスッカーッとしました。
と、ついでに、箱崎にあるスポーツクラブに行って体験入学でプールで泳いできました。そこはプールの水がとてもキレイで、カルキ臭さもありません。
ただ、さんざん歩いた後なので、泳いでいたら足の指がつってしまいました。
太宰府もプールもどっちも前から行ってみたいところだったので、今日はとても充実した一日でした。これで明日からの勉強に集中できます。