2009年7月24日金曜日

記録的豪雨


今日夕方、福岡市内で一時間に110ミリの大雨が降ったそうです。わたしはローにいてよく分からなかったのですが、それでも屋根に打ち付ける雨音のすさまじさには驚きました。




なんでもわたしの住んでいる鳥飼という町では川が氾濫したそうです。




それを聞くと、川の様子を見たくてむずむずしてきました。子供の頃から、台風とか洪水とか大雪とかに興奮するんです。




新幹線もストップしているらしいです。さっき女房から電話があり、会社の会議で遅くなって夜9時過ぎになって退社してきたら、会社は博多駅近くにあるんですが、駅前の道路が大渋滞していると言ってました。




博多駅って、微妙に窪地にあるので、一度大雨が降ると駅の周りはあっという間に池になります。数年前には死者も出ました。




 さっきからローの外で消防署のサイレンが鳴りっぱなしです。はじめは火事かと思っていたんですが、どうも川の決壊ではないか、という気がしてきました。ローから3キロほど東に、多々良川という結構大きな川があり、その多々良川にいくつもの支流が流れ込んでいるのです。その支流が決壊したのでしょうか。




多々良川といえば、知る人ぞ知る歴史上有名な場所なんですよ。




ちょこっと蘊蓄を傾けさせていただくと、、、、、




そもそも(なんちゃって、気負っております)、関ヶ原の戦で東軍に寝返った小早川秀秋が多々良川河口の名島城の城主でした。




その前には、河口の多々良ヶ浜で、足利尊氏が後醍醐天皇方と戦って勝利した、多々良が浜の戦がありました。




足利尊氏は都で天皇方に敗れ、一目散に九州博多まで逃げてきたのです。




そこで味方を募って勢力を増やし、追ってきた天皇方をこの地で破り、逆に山陽道を上って兵庫の湊川の戦いで楠木正成を討って天下を取ったのです。




そういう、形勢大逆転に成功した場所,まさしくターニングポイントです。




では何故関東足利を地盤とした足利尊氏は九州に逃げたのでしょう。




ここからはわたしの推測です。




かつて元寇のとき、1274年、1281年、北条時宗は九州警護のため、関東地方の武士を大勢九州に派遣しました。




その後、関東に帰らずに九州に居着いた武士団がいました。彼らは関東の名門足利氏と縁戚関係にあったと思われます。




それで、元寇から60年後、尊氏は親類を頼って九州に落ち延びたのだ、と思います。尊氏が九州に落ちてきたとき、わずか数数百騎しか供がいなかったそうです。結局、数万の南朝方に勝ってしまいました。宗像大社の託宣とか、神風が吹いて砂埃が南朝方に向かって吹いたので目が開けられなくなったり矢が飛ばなくなったため南朝方は敗走したとも言われています。

とにかく、尊氏の元に集まった軍勢が九州にいた、という事実は重要だと思います。




 そして、もうちょっとだけ言わせてもらうと、さらに遙か昔、弥生時代後期、ここ多々良川流域では砂鉄製鉄が渡来人によって行われていました。




多々良(たたら)とは、砂鉄を原料にして鋼(はがね)を鋳る高等技術です。




全国各地にたたら、と言う地名が散在します。そこではかならず砂鉄が取れます。




出雲地方の八岐大蛇伝説も多々良の話だそうです。








と、いまこうやってローでブログを書いているんですが、いまもサイレンが鳴りっぱなしです。




どうやら外は大変なことになっているようです。




無事帰り着けるかしら。




明日は要件事実の最終回。先生にいろいろと質問をしなければならず、そのための準備が大変です。


で、我が家にたどり着きました。どうも近所の用水路みたいな小さな川が氾濫した形跡がありました。わたしの家の近所では2千人あまりの人たちが公民館に避難しているようです。おっと!たった今雷が間近に落ちました。花火が爆発したようなスゴイ音がしました。


明日朝無事にローにたどり着けるか心配です。