2009年2月19日木曜日

うまくいく日といかない日




昨日、学生課に行って授業料免除申請手続きをしました。案の定トラブル発生。とはいっても今年は去年の教訓という財産があるのでうまく回避できました。


男性職員が、私の提出した書類に不足がある、とクレームをつけたのです。わたしが親の扶養にかかっていないことを証明する必要があるため、わたしは親と別居していることを示す住民票、収入がないことを証明する所得証明書、を提出したのですが、そのほかにも親自身が私を扶養していないことの証明書も必要だというのです。


それでわたしがモンスタークレーマーよろしく、『去年申請した時はそんな書類はいらないといわれましたよ、現にこの去年書いた下書きを見てよ』と食い下がると、相手はちょっとひるんで、『では親御さんの所得証明書を出してください、その証明書には扶養人数が記載されていますから』と。


 最初からそう言いなさいよ、と思いましたが、わたしも一応大人なので『それなら納得しました』とやわらかく答えました。


 それ以外の膨大な親の青色申告書など、去年一生懸命兄貴が集めてくれた書類は今年は一切要りませんでした。そういうわけで若干の押し問答はあったものの去年の10分の一の労力と時間で終わりました。こういう書類仕事って苦痛なので短時間で片付いてさっぱりしました。


 あんまり気分がよかったので、ローに行ってロビーでクラスの連中と談笑していた時、民事裁判実務で落とされたことをあっさり暴露してしまいました。驚いたのは、それを聞いた学生たちがそのニュースを聞いたときの驚きぶりです。


かれらがこれほど驚くとは思いませんでした。こっちはとうに達観の域に達していたので彼らが驚いてくれたのを楽しく拝見できました。


ある学生が、『明日にはクラス中がAさんが落ちたのを知っているでしょうよ』と、言ってました。好きにして、てな気分でした。


 ローは今エアコンが故障中なので寒いです。足もとからの冷気がちょっときついです。


 今日、区役所に両親の所得証明書を取りに行くと、係の女性が、冷たい感じで親の委任状が必要だと言いました。じゃあ委任状を書くから、というと、いやな顔をしました。ここで委任状を書いては困る、というのです。委任者である親が自ら書いた委任状でなく、受任者であるわたしが書くからです。つまり、委任状は委任者自身が書く必要がある、というのが彼女の考えなんです。


 たしかに世間的にはそういう考えが通常です。およそ委任状というものは委任する人が自ら書かなければならない、というのです。


 でもそれは真実ではありません。


たとえば、親が私に向って、『お前がワシに代わって委任状を書け、ハンコも押しといてくれ』と言ったとします。それに従って受任者である私自身が委任状を作成したとします。この委任は無効でしょうか、とんでもない。委任者の言うとおりに書いたのですからこの委任は有効であり、委任状もまた有効です。つまり、受任者は委任状(わたしは~についてAに委任します、との文言が記載された文書)の作成を受任者に委託させてはならない、委託させたら無効になる、なんて法律はどこにもありません。委任者が良いというならそれでいいんです。


 ですから、受付の目の前で受任者が委任状を書いたとしても、委任者から委任状を書いてくれと頼まれていたのであれば何の問題もありません。


 もちろん、本当に委任があったのかどうか疑わしいではないか、とりわけ受任者自身が委任者の書く(はずの)委任状を書くなんて、本当に委任があったかはなはだ怪しい、と疑うのももっともです。


 でも、よく考えてください。仮にわたしがあらかじめ自宅で委任状を作成した上で区役所に来て、はい、これが委任状ですよ、と係の人間に見せたとしましょう。まあそういうケースが一般的ですよね。でも、その委任状(とみられる文書)が本当に委任者によって書かれたものだと誰が分かるのでしょうか。わかるはずはありません。だって係の人間はその文書を委任者が書いている現場を見ていないんですから。つまり、その文書は委任者がちゃんと書いた委任状、らしく見える、信用できそうに見える、というだけです。


 じゃあ世間はなんで文書を信用しているのでしょうか。それは文書に書かれた署名または捺印が本物だろうと思われるからです。つまり文書の信用性の源はサインかハンコにあるんです。だれが書いたか、は本質ではありません。


 ということは、委任状が本物かどうかを本気で(ここが大事な点です)確かめるためには、捺印文書の場合印鑑証明書が必要になるはずなんです。


 なのに、役所では他人が証明書を申請する場合、委任状は要求するものの、印鑑証明も見せろ、とは言いません。


 これは何を意味するのでしょう。それは、役所のやることはカタチだけの見せかけだ、本気ではないということです。本気で代理人かどうかとことん確かめるようなことは全くしていない、ということなんです。カタチだけ名目的に委任状を要求して、役所としては個人の情報管理をちゃんとやっていますよ、と責任回避するための儀式をやっているだけなんです。


 もしも役所が本気になって個人情報を守ろうとするなら、他人が所得証明書を申請したら、『あなたはどういう関係ですか、本当の代理人ですか、それを証明する物を見せてください、委任状ですか、これも本物かどうか確かではありませんから、印鑑証明書を出してください。でないと見せません』と言うはずなんです。


 なのに、現実は、ただのぺらぺらのだれが書いたのかわかりっこないような委任状だけでOK、しかもハンコには印鑑証明も不要なんです。ほんとにカタチだけなんです。


 そんなへのツッパリにもならない形式的な委任状提出の、形だけを死守しようとする係員に対してわたしは怒ったのです。


 ですんで、わざと『じゃあここで委任状書くから』と、彼女の目の前で書いて自分のハンコを押してやりました。


 そのうえ、去年もらって使わなかった親の所得証明書を使ってその裏側の白紙部分に委任状の文面を書いて押印して提出しました。


 そしたらその係員はむっとした顔をしました。


 その2分後、親の所得証明書をもらってお金を払うとき、その係員がわたしに『今度からは証明書の裏側を使って委任状にしないでください』と文句を言いました。


それでわたしも『どうして?』と言い返しました。


すると向こうも『証明書だから』と。


それでわたしが『自分の紙をどう使おうと自分の自由でしょ?』


とまた言い返すと、向こうは沈黙しました。


 わたしがわざと去年の親の所得証明書を使ったのは訳があるんです。去年もわたしが親の所得証明書を取っていたことの証拠なんです。ですから、それを見ればわたしが決して赤の他人でないことが分かるはずなんです。もちろん、去年委任を受けたから今年もまた委任を受けているとは限りません。


ですが、さきほども言ったように委任状自体、ほとんどまったく委任の事実の存在を証明する力はないんです。だれでも勝手に偽造できるんです。


そんな屁みたいな委任状に比べたら去年の親の所得証明書を私が所持していることの方がよーっぽど信頼性が高いんです。


 なのにそういうくだらないことでこちらをやっつけようとする係員は、心底役人根性丸出しです。つまりカタチだけを御身大事にしていて何がことの本質か考えようともしないのです。




 もともとそんな意地悪をするつもりはさらさらなかったのですが、相手の対応がひじょーに非人間的だったので、ホノホがメラメラっと立ち上ってしまったのでした。


 またこれには伏線があり、3日前に同じ窓口で自分自身の所得証明書をとったときの受付係の女性は人当たりがよくて爽やかな感じだったのです。ついそのときの女性と比べてしまったのでした。で、その時の女性は若くて所内の地位もそんなに高そうに見えなかったのですが、今日の女性は中年で、地位が高そうな感じで、わたしに話すときの雰囲気が、詰問チックだったのです。


それでカチンときたわけなんです。今まで城南区役所での応対で不愉快な目にあったのは、中央から巡回でやってきたエラソーな若い女くらいでした。


 そんなイイ感じの区役所にこんな昔風のえらそなヤツがいたので、ほかの公務員たちがせっかくいい雰囲気を作っているのになんだおまえは!という怒りもありました。


やっぱ、怒りって人間の行動の源になりますねー。知らぬ間に長々と書いてしまいました。どーもすみません。




昨日は、今年入学するS君ともお話ができ、よかったです。彼と話をして、入学前に何をやっておくべきか、をアドバイスしたのですが、改めて、やはり判例が重要だと再認識しました。


あ~あ、わたしが入学した去年、わたしのような親切過剰人間が(自分で言うか!?)先輩にいてくれたらどんなに助かったことか、民事裁判実務も落とずに済んだだろうに、、、。それは冗談ですが、何事も情報が大事だなあ、としみじみ感じました。
昨日撮った文系キャンパスの梅です。今日は大雨、たぶん明日も。雨の日にはホセ・フェルシアーノの歌がよく合います。