2010年6月8日火曜日

久しぶりの








8年ぶりですか、塾で教えるのって。





久しぶりに社会の授業を、4コマ連続でやってきました。1コマ45分です。





小51クラスの二コマ連続と小6が2クラスです。前原地区の子供達は、昔もそうでしたが今も素直で明るいです。どのクラスも6人~8人なので、こじんまりして教えやすかったです。





また、専任講師も非常勤講師もみんな人格者ばかりで、大変ビックリしました。普通、塾の先生のなかには変なのが必ず居るのですが、今回はみなさんノーマルで、親切でした。感謝。










世の中変わったなあ、と思った点が二つ。一つは、ミカンの生産日本一が愛媛県では無くなったこと。とうとう和歌山権に負けてしまいました。もう一つは、学校の教科書も学校が出す宿題帳も、塾のテキストもみんなカラー印刷なんです。もう、サービスてんこ盛りです。





勉強する気にさせるような体裁に作られていてとても素晴らしいと感心しました。










☆塾を出たのが夜9時35分。JRに乗り、姪浜でそのまんま地下鉄になり、西新駅に着いたのが10時6分。この先ずっとこんな生活を続けなければならないのかと思うと胸が締め付けられました。
ただ、一日中体を動かしたためか、お腹の具合はかなり良くなってきました。
もっとも、これわたしだけかもしれませんが、お腹の具合が悪くなると、決まって炭酸飲料が飲みたくなるんです。で、帰りのホームでダイエットコーラを買ってゴクゴクやりました。





☆☆ まだ法務省から通知が来ません。だんだん腹が据わってきました。もうどーにでもなれ、って。




それで考えたんです。なんで択一にこんなにビビルのかって。分かりました。トラウマです、旧試

験の。択一試験でどれだけ痛い目にあったか、無意識のうちに恐怖に怯えていたのです。




    ・・・・でもやっぱコワイっす。      




☆筑前前原駅は地下鉄西新駅から25分西に行ったところです。西新駅から距離にして16キロ。唐津までの中間点です。魏志倭人伝の「伊都国(いとこく)」があったところです。ちょっと前までは糸島郡前原町と言ってました。同じ糸島郡に、志摩町というのもありました。だから、いと+しま=糸島となったわけです。


前原町には、いと城(りっしんべんに台と書いて、い、と読みます、後は土)という古墳時代の城跡があります。そこから山の尾根伝いに東へ進む太宰府への最短コースの軍用道路が通じていました。

また、平原古墳(ひらばるこふん)といって、国内最大の大きさ、直径46センチもある銅鏡(国宝)が出土した古墳もあります。
※ここで自説を。この前原(まえばる、と読みます。原をパルとかバルと読むのは朝鮮式の読み方です)付近には神話に出てくる地名がどっさどっさあります。
たとえば、ヤマト=山門、日向=ひなたと読みます。どちらもこの辺に存在します。そして平原古墳はこの日向峠を下ったところにあるんです。
古事記はこの辺りの神話をもとにしたのではないかと思われます。
※※ くどいですけど、もう少し聞いてやってください。今、奈良地方で、まきむく遺跡から大量の銅鏡が発見され、その多くが三角縁神獣鏡だったので、そこが卑弥呼の墓だと言われています。
けど、肝心の魏の国ではこの三角縁神獣鏡はほとんど出土してないんです。日本で勝手に作ったのだと考えるのがスジです。
また、三種の神器、鏡、玉、剣、が同時に同じ古墳から出土したのは前原を中心とする北部九州だけです。近畿地方の古墳からは三種の神器が同時に出土した例はありません。
※※※以上から、天皇の出身地も卑弥呼も北部九州っぽいと考えます。半島に一番近い場所ですもの、そう考えるのが合理的じゃないでしょうか。
それから、邪馬台国、という国は存在しません。邪馬壱国はありましたが。
つまり、難しい漢字のたい、という文字は、魏志倭人伝ではほんの数カ所しか使われておらず、その意味は、国王(すなわち曹操の家系)を指す尊い言葉なんです。そんな尊貴な漢字を野蛮な東海の小国に使うはずがありません。実際に魏志倭人伝に載っている漢字は、旧仮名使いの壱のもっと古い字です。
それを江戸時代の学者達が、魏志倭人伝が誤記をしたのである、と勝手に解釈した(無茶振り)にすぎないのです。この字がタイと変われば、ヤマタイ、つまりヤマトと繋がるからです。
おそろしいほどの目的論的解釈です。現代においてもまだ皆がヤマタイコクと言い続けていること自体が摩訶不思議でなりません。あれは誰がどう見てもヤマイチコク以外には読めません。
え~、ウルサイ?失礼しました。