2008年5月8日木曜日

行政法って







重たいです。一週間後に課題提出。そのための勉強プラス授業の予習も。



まるまる一科目分あります。どうすりゃいいの。



しかも、今日の授業、いきなりバカバカ当て始めたのです。わたしは内心超パニック。



全然予習してないのです。なめきってたのです。どうせ先生の独演会で終わるだろう、と。ところが突然の来襲。



その上、わたしにとって更に恐ろしいことが起たのです。



それは、当てられた学生達がきちんと答えたのであります。どっひゃ~っ!



わたし、背筋に冷たい物が走りました。こりゃマズイ。みんなやっとるやんか。



なしてそんなにきちんと予習するのよ、みんな?



もちろん、なかには答えられなかった学生もちらほらいました。けれども、答えた学生の回答の中身は、ど真ん中の大正解でした(と先生の言葉)。



大したもんだなあ!恐れ入りました。わたしも一から始めます。そして1週間でマスターします(無理無理)。



 ただ、当てられたのは幸いにもわたしの列ではなかったので、当たらずに済み、心から安堵しました。



 昨日の民訴といい、今日の行政法といい、心がますます重くなってきました。



それに比べ、刑法は当初思っていたほど重たくなくなってきました。毎回順番通りに14人ずつ当たるというサイクルが確立されているので予測可能性が高いからです。



今日当たったのは超有名な判例で、つっこみも余りありませんでした。わたしのみたところ、若い学生たちは、セリフが長いです。まず理由から先に述べてその後結論を言います。なぜでしょう。小泉首相のような簡潔な話し方をしません。まるで文章を読み上げているようです。



わたしが思うには、長くしゃべるから突っ込まれるのです。わたしは結論しか言いません。すると先生が、その理由は?と聞くので、短く、~だからです、とだけしゃべります。先生がもっと突っ込んでくると、~と~を総合的に検討するからです、とまるで判例のように答えます。



わたしがそういうようになったのは、実は判例をいっぱい読んでいると(読まされていて)、判旨が実に様々な事情をまさに総合的に検討していることに驚いたからです。



判例は決して特定の学説や見解だけに依拠して判断していません。本当にあれもこれもそれもどれも、と全部について検討を加えています。そのため判旨はイヤになるくらい長くて読む気が萎えます。



 そういうわけで、基本的な誰でも知っている見解をベースに、いろんな事情を総合して結論を下す、というのが実務ではないか、と思うようになったので、答えるときもそういう言い方になってしまいました。



で、そういう言い方だと先生の方も突っ込みにくいのでしょう。逆に学説で突っ走るとどの学説にも欠点がありますから、よほどの深い考察をしていないと追い込まれてしまいます。



 しかし、刑法の先生は実は優しい先生なのではないだろうか、と段々思うようになってきました。どの先生も、4月初めの頃と印象が随分変わってきました。