2022年4月9日土曜日

吉野ヶ里遺跡と柳川川下りとウナギと飲み会

 昨日、令和4年4月7日(木)は猛烈にスケジュールがタイトでした。

朝9時、家庭教師先の子供達、お姉ちゃんは今度から高三、弟君は今度から高一、二人ともわたしの教え子です。おおよそ5年間教えてきました。

お父さんがアメリカの方で、5年前まで家族4人でアメリカ暮らしをしていましたが、後両親が別居され、お母さんが2人の子供を連れて福岡に里帰り、実家の眼科医のおじいちゃん夫婦とひいばあちゃんと同居中。

子供達はアメリカ時代、日本語をほとんど話さなかったため、帰国して相当日本語に苦労していました。今でも苦労中です。

わたしが5年前、天神のなんとか講師会という個別指導塾に家庭教師新規申し込みで出かけていったところ、たまたまそこでであったのです。おばあちゃんが2人を連れてやってこられ、当時小学校五年生だった弟君を教え始めたのです。

2人にとって日本語習得は相当苦労したと思います。特にお姉ちゃんの方は、日本語の教科書も読めず、日本語習得のための課程があるはずだった◎◎中学に入学したら、約束に反して来年からしか設置しないと言われ、普通のクラスで授業を受けたため、授業内容がさっぱり分からず、友だちも出来ず、不登校になり、インターナショナルスクールに転校したものの、そこではグループの人間以外は排除するという、意外に閉鎖的な環境で、友だちと言えたのはグループから排除された者同士が寄り添う、という可哀想な人達、ところがその人達がとても癖が強く、案外自己中で、相手を思いやる気持ちが欠けている人が多かったようです。インターナショナルスクールの修学旅行に出かける前は嬉しくてはしゃいでいたのに、帰ってきたら暗い顔をして、イロイロと嫌な目に遭ったと。やはりグループ疎外が原因みたいです。不登校校になり始めたとき、わたしがお姉ちゃんも指導するようになり、日本語の勉強を兼ねて、赤毛のアンの少年少女版を声を出して読ませたりしていました。

結局、インターナショナルスクールも辞めて、通信制の高校に編入しました。そこでようやく日本人の友だちが出来、表情も明るくなってきました。

それで、春休みになったらドライブに連れて行ってあげる、と前々から約束していたので、昨日2人を連れて、吉野ヶ里、柳川川下りをしてきました。

吉野ヶ里は初めて行ったのですが、大変勉強になり、どっちかというと子供達よりもわたしの方がはしゃいでしまいました。

吉野ヶ里は縄文時代からすでに人が暮らしており、奈良時代まで続いたそうです。

わたしが、係の方に、縄文から弥生に移行する際、弥生人が縄文人を追放とか虐殺とかしたのか、と尋ねたところ、そうではなくて混ざり合ったということでした。よかった。

しかしまあ、吉野ヶ里の防御態勢は異常なくらいでした。敵の襲撃が頻繁で強力だったことが分かります。真っ暗な夜に襲ってきたら、と思うと、怖ろしいです。弥生時代は、ウクライナに攻め込んで大虐殺を行ったロシアと同じようなことが起きていたのだと思うと、恐怖です。甕棺の中に埋葬されていた人の骨には頭蓋骨が無く、体の骨の一部に刀傷があるレプリカが展示されていました。

その後、柳川に。福岡から国道385号線が真南に一直線に走っていて、佐賀県との境にある五箇山ダムを越えて佐賀平野に降りるとすぐに吉野ヶ里、それをさらに南下すると柳川にたどりつきます。福岡から柳川まで一本道で60キロ。

柳川で、三柱神社の鳥居の前の川下り乗船場に。三柱神社は、わたしが大好きな戦国武将で柳川藩主になった立花宗茂をお祀りしている神社で、乗船時間までの間に3人でお参りしてきました。立花宗茂は、ミスターパーフェクトと言われる、戦国一の武将で、徳川家康が最も怖れた男でした。部下を大切にし、全ての情報を部下と共有し、秘密を持たず、戦死した家来の名前を全て記録に残し、毎年彼らを供養した、と、他にそのようなことをした武将は誰一人居ません。朝鮮出兵の際、碧蹄館の戦いでは明軍10万人に対し、立花軍1500で立ち向かい、見事明軍に勝利したのです。関ヶ原の戦いでは、西軍に与したため、家康は、立花宗茂が関ヶ原に到着する前に決着を付けようとしました。宗茂が関ヶ原に到着したら東軍が負けてしまうからです。宗茂はその後改易となり素浪人になってしまいました。しかし大名も家康も宗茂の戦歴のもの凄さ、人間としての素晴らしさから、ほおっておくことをせず、二大将軍秀忠のお伽衆、戦国時代を生き抜いてきた大武将の知恵と戦略、思想を将軍に教える役に就きます。そしてとうとう、西軍でただ一人、領地を没収された後同じ領地を復活させた大名となったのです。いつか必ず、立花宗茂を主人公とする大河ドラマが作られるでしょう。リストラされてもめげずに努力して復活するというドラマチックなお話もさることながら、宗茂の人間性がとてつもなく魅力的なのです。

わたしの宗教は、大谷教と宗茂教です。大谷翔平選手と立花宗茂を日々思って精進しなければ、と思っています。もちろんベースにあるのは老荘思想ですが。

話を川下りに戻すと、25年前に乗ったのとは違うコースで、また良かったです。多分乗船場が違ったので違う会社だったのでしょう。

沖端の終着点で降りて、若松屋でせいろ蒸しを食べる、はずだったのですが、大ちょんぼ!

せいろ蒸しを頼んだつもりだったのですが、出てきたのはうな重。え?と思ったのですが、わたしが注文したのは松定食。メニューの左側にせいろ蒸しの写真があったので、せいろ蒸しが松定食だと思い込んでしまったのです。ただ、接客した奥さんの前で、子供達に向かって、『せいろ蒸し食べたこと無い?柳川に来たらせいろ蒸しを食べないとね。』なんてことをしゃべっていたので、奥さんは当然せいろ蒸しを我々が食べようと思っているのを分かっていたと思うのです。なので、『松定食はせいろ蒸しじゃありませんけど』と教えて欲しかったです。

うな重の味ですが、残念ながら、でした。博多の吉塚うなぎのうな重の方が10倍おいしいです。せいろ蒸し用には、ぽってりした味付けにしないといけないのだろうと思いますが、せいろ蒸しならそれが美味しいでしょうけど、うな重にするときはもっとあっさり、淡泊にしないと美味しくないと思いました。

子供達に申し訳ないので、その後行った、お花という立花家の別邸の売店で、せいろ蒸しのおにぎりのお土産を子供達に渡しました。結構なお値段で、一つ480円!それを6個渡しました。

で、ダッシュで福岡に戻り、夕方6時からの修習生の飲み会(おそらく全員揃うのは最後、13人出席して4人だけ福岡で弁護士に、残り9人は、検察官一人以外東京で弁護士に)にギリギリセーフ。これから先みんなと再会するのは誰かの結婚式でしょう。