2013年8月27日火曜日

秋の兆しと覆面調査と宇多田ヒカル

☆今日は涼しかったですねえ。酷暑が懐かしくさえ感じてしまうほど爽やかな秋っぽい風が吹いていました。
今日、バイトで、ある会社を覆面調査してきました。ハラハラドキドキしました。多少ではあっても、また、正当な行為であるにしても、やはり人を騙している要素は否定できません。ミシュランの覆面調査員も似たような気持ちなんでしょうか。ただ、ミシュランと違うのは、覆面調査の元々の依頼者は当の覆面調査対象会社その人なんです。内部調査を外部に発注したということなのです。また、自分のところの社員が社内マニュアルを正確に実践しているかを確かめるための調査なので、まじめにちゃんとやっている支店にとっては評価されることになりますから有り難い制度とも言えます。そうやって自分を鼓舞して調査しました。これ以上は守秘義務に引っかかりますので書けません。結論。あんまり面白いバイトではなかった、です。

☆ 宇多田ヒカルさんのお母さん、藤圭子さんが飛び降り自殺なさったとき、その原因は一体何だったんだろう、とか、宇多田ヒカルさんは辛い思いをされたのだろう、などと推察していました。わたしらにとってはお母さんの藤圭子さんと同世代なので、彼女の自殺は我が身に迫ってきました。あの無表情な美しい顔、真っ黒な長い髪の毛、まるで日本人形のような外観。けれど、それとはまったく逆なハスキーボイス、どす黒い情念で凝り固まった歌、昭和のニオイの発生源とも言える歌手でした。
その娘である宇多田ヒカルさんが母親の自殺について公式コメントなるものを発表しました。それを読んで驚嘆しました。もの凄い表現力です。その内容である、母、藤圭子の精神疾患の存在についても驚きましたが、宇多田ヒカルの文章のすばらしさにもの凄く感心したのです。
なかでも一番スゴイと思ったのは、彼女の文章のどこにも接続詞がないのです。しかし、とか、そして、やはり、でも、また、そのうえ、ところで、それでも、なぜら・・・・・・などという接続詞を全く使わずにわかりやすい文章を書いているのです。
やはりこの人は並の歌手ではないなあ、とその文才に今更ながら驚きました。失礼ながらわたしはこの人の歌い方が嫌いです。息継ぎの音が耐えられないのです。わたしは呼吸器系が弱くてとりわけ息を吸ったり吐いたりすることに過敏なのです。なので彼女の歌を聴いているとこちらが息苦しくなってくるのです。
それはともかく、彼女の公式コメントを掲示させていただきます。接続詞のない文章がいかに素晴らしいか、是非皆さんにご紹介したいのです。

【宇多田ヒカルさんの公式コメント】
8月22日の朝、私の母は自ら命を絶ちました。さまざまな臆測が飛び交っているようなので、少しここでお話をさせてください。
 彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。
 その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました。幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。
 母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。誤解されることの多い彼女でしたが… とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。
 悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。沢山の暖かいお言葉を頂き、多くの人に支えられていることを実感しています。
 ありがとうございました。
 
☆今日の天気はまことに爽やかでした。日一日と季節は夏から秋に向かって進んでいます。蝉の音も少なくなり、代わってコオロギや鈴虫の音が夕方の風情となってきました。発表も近づき、精神状態も極限に近づいて来ています。
論文の内容だけからすれば合格最低点を優にクリアしていると確信しています。恐ろしいのはその真逆に、致命的な形式的ミスを倒産法でヤッチャッタかもしれないということです。もしもそのミスが現実のものなら、アウト!です。今のわたしの頭の中が地獄の底なし沼に向けてグルグル渦巻くように奈落の底に落ちていきそうになっているのはその1点だけです。その恐怖を少しでも忘れることができるなら、と、肉体労働のバイトをやってきました。
ですが、昨日も行ったコンビニ弁当の仕分けバイトで、やはり1時間ほど経つと、このバイトが心底イヤでイヤでたまらなくなってしまいました。
昨日のバイト先では、最初の4時間(朝7時~11時)までは死ぬほどキツイです。全く休む間もなく次から次へと弁当おにぎりの仕分けが送られてきます。その後30分間休憩して、残りの1時間半は、急にペースが落ちて、大部分は紙パックのジュース20本分を透明ビニールで梱包しているその透明ビニール剥がし作業です。これはノルマとか切迫事情など一切ありません。その仕事が早く終わると、何か別の作業を振り当てられます。その仕事内容は他の作業のお手伝いなどです。派遣先の正社員で派遣を指導する人も、派遣に何の仕事をさせようか、と、仕事探しをするくらい、派遣先にとっても余りの時間帯となっています。
なのでわたしとしては透明ビニール剥がしの仕事がバイト終了時刻とちょうどピッタリに収まるくらいの量であれば、あえて急いでビニール剥がしをやる必要もなく、マイペースで確実にビニール剥がしをこなしていけばよい、と考えています。それに、11時までは時給800円では少なすぎるくらいの濃密で必死のスピードを要求される仕事をさせられたのだから11時半からは残りの仕事をゆっくりやってちょうど±0になるくらいだ、と思います。それでわたしが仲間の派遣女性二人に、ビニール剥がしはゆっくりやりましょう、と相談すると、二人のうち30歳代の女性はニッコリ微笑んで、分かりました、と返事してくれました。ところがもう一人の方、20歳くらいの女性は、ムキになってわたしにこう言うのです。『そんなことしたら仕事もらえなくなります!』と。
なんというナイーブさでしょう。バイト時間内は必死にやらなければならない、という労働倫理は見上げたものです。ですが、派遣先があなたに期待している労働内容、結果はあなたが思いこんでいる程度よりも相当少ないですよ、と言いたかったのですが、止めました。
この夏、いろんな場所で働いてきました。楽なところもあれば辛いところも。どのバイト先でも感心したのは派遣労働者、バイトが一生懸命働くことです。手抜きしているどころか、派遣先の会社の要求を遙かに超えてひたすら働いています。正直言ってわたしはあきれました。
何が言いたいかというと、労働契約に基づく賃金支払い義務と労働提供義務とが対価性を有していること、つまり、1時間につき800円分の労働を提供する義務はあるがそれ以上の労働提供義務はない、ということです。では1時間あたり800円に相当する労働提供義務の程度はどれくらいか?それは様々な労働環境を総合して、いわゆる相場観で決めるしかありません。で、わたしの少ない労働体験からすると、7時から11時までの弁当仕分けという労働は抜きんでて高濃度の労働が要求されます。1分、いや、30秒でさえ休む間がありません。ひっきりなしに次から次に仕分け対象の商品がやってきます。制限時間内にそれらを全部完璧に正確に、おにぎり1個の間違いもなく仕分けしてしまわねばなりません。そりゃあもうヘトヘトになります。
その労働に対する対価は、時給にすると軽く1000円以上になると思います。しかも、ビニール剥がしそれ自体時給800円相当の労働です。ですから、結局、この仕事は割りに合わない、ということになります。それに、さっきも言いましたが、派遣先もビニール剥がし以上のことを派遣に求めていません。
ですから、若い女性の心配は杞憂に過ぎません。ただ、一生懸命仕事しないと次から仕事を貰えなくなる、という発想を笑い飛ばすのは逆に傲慢のそしりを免れません。彼女にとって弁当仕分けバイトの口が貰えるかどうかは死活問題なのですから。
それでも、わたしは言いたいのです。もう少し賢くなっても罰は当たらないよ、って。自分中心で物事を判断するのからもう少し視野を広げて周りを観察してみたら?と言いたいです。派遣先があなたに求める労働の中身程度は何か、を相手の側に立って考えてみたらどうか、ということです。しかも、派遣労働者がその若い子みたいにみんな必死で安い時給で働いたとしたら、結局派遣労働者たちは自分で自分の首を絞めているようなものじゃないか、と思います。やはり労働対価を超える労働をするべきではないと思います。

☆いま自分が一番したいことって何だろう、と自問自答しました。結局、法律の実力を身につけることだ、と得心しました。とことん考え詰めることが自分の癖なんだとわかりました。
いまは、マンション管理士試験、マンション管理業務試験の勉強、簿記、財務諸表の理解を深めたいと思っています。また、民訴や刑訴などの訴訟法の構造、とりわけ、民訴における訴訟物、訴訟物の特定、特定請求原因、理由付け請求原因、と言う概念整理は刑訴での訴因、公訴事実とどのような関連性があるのか、について考えています。そういう頭で起訴状の公訴事実の具体例を読むと、とてもフレッシュです。検察官たちがどういう頭で起訴状を構成しているのかが分かってきました。やはり法律は考える作業、まとめる作業が最も重要だということです。憶えるのを主目的にした勉強は最低最悪だと今更ながらに身にしみました。