2022年4月24日日曜日

民事裁判でした

 不合格科目が分かりました。民裁でした。やはり、という感じ。

試験中パニックになりかけました。分からない小問があり、それに引っかかってずーっと考え続けたのが良くなかったです。

みんなも分からないのだから、なんでも良いから適当に書いてもその小問で落ちることはないのに、欲をかいたため力んでしまいました。

あと、これは当時の精神状態が異常だったことを物語るのですが、当事者が主張しようと思ったが結局主張しなかった事実があれば書け、という小問で、何もないと思ったら、『無い』と書くべきだったのに、全く何も書かずにスルーしまいました。

これは大変マズかったと思います。無いなら無いと書かなければならないし、これまでの即日起案でも必ず書いていたのに、何故か本番では、書かなくても良いだろう、なんて魔が差してしまいました。

内容的には、どこかで採点官に誤解されるような記述を書いてしまったのかも知れません。

あるいは民法の知識を書きすぎて要件事実として書いていなかったのかもしれません。

☆とにかく、敗因が分かったのは大きいです。自分が抱いた漠然とした不安が的中してしまったといえます。でも究極の問題は、自分の犯したミスが修習生全体のうちのわずか一人二人といえるくらい酷い致命的なものだったと評価されたことです。この点については正直言って納得できません。他の奴らも似たように酷い起案を書いたのではないか、と思わざるを得ません。

☆とはいえ、民事裁判の勉強は、法律事務所での仕事と直結している部分が多いので、二回試験対策であると同時に弁護士になれた後に大いに役に立ちます。なので、もう一度基礎から民法民訴法要件事実裁判記録の分析争点整理をやろうと思います。


☆ひまわりのたね、という、二回試験落ちを救ってくれるグループがあり、そのグループにコンタクトを取ることが出来ました。それで、Oさんという73期で去年二回試験に落ちて今年受かった方が運良く福岡在住で、その方とお会いすることが出来ることになりました。その方によると、今年の二回試験落ちは九州の人間が多かったそうです。なんで?

Oさんをはじめ、73期の二回試験落ちの修習生はとてもつらい期間を過ごしたと思います。というのは、次の二回試験までに1年4ヶ月も待たなければならなかったからです。わたしの期である74期はコロナのせいで3ヶ月以上司法試験が遅れ、修習もそれにより4ヶ月くらい遅れ、二回試験も4ヶ月くらい遅れたのです。なので通常なら次の二回試験まで1年待てば良い(それでも余りに長すぎますが)のを73期は1年4ヶ月も待たされたのです。逆にわたしの74期は次の75期の二回試験が今年11月にあり、わたしは半年後に二回試験を受けることになります。例年の半分の待ち時間で済みます。これはとてもとてもありがたいです。半年なら次の二回試験の対策に必要な時間としてはちょうど良い長さだと思われます。民裁だけでなく刑裁、民弁、検察、刑弁と合計5科目の試験を全部もう一回受けなければならないので、全科目ブラッシュアップするには3ヶ月くらい、しかし民事裁判を確実に受かるためには広く深く勉強しなければならないので、もう3ヶ月、合計半年必要だと思います。なので、ダレる時間が無くなります。その上事務所ではボスの指示で裁判記録を読んだり書いたりしなければならないので、遊んでいる暇はなさそうです。



2022年4月19日火曜日

二回試験に落ちて

 まさか自分が落ちるとは!?

二回試験に落ちてしまいました。1450人中わずか5人しか落ちませんでした。その5人の中に自分の番号を見つけたときの気持ち・・・・

まさか、でした。何で?そんな馬鹿な!

落ちる不安はなかっったのか、と言われると、それはありました。初物に弱い肝っ玉の小ささ、修習中にしっかり準備して起案を書いて他の修習生に見て貰うとかの努力を怠っていたことは確かです。研修所の寮にいたとき、どことなく夢の中にいるような非現実感は感じていました。孤立感もありました。思えばそれはかつて大学受験の時に感じたフワフワ感と同じだったような。

でも、だからといって自分は1450人の中のドベの力しかないのかと言われると、異議ありです。

ではなんで落ちたのか?何が致命傷になったのか?成績通知は7月にならないと届きません。

なので、今は、どの科目で何を書いたのかをメモっておくこと、もう一度基礎からやり直すこと、たとえば要件事実をマスターしてまとめる、民事保全、執行をマスターする、白表紙を完璧に自分のものにする、長い記録をサクサク読み込めるようにする、そのためには実物の事件記録を利用する、それには入る予定だった事務所で勉強させて貰うこと、などなど、考えています。

研修所の教官方にはすぐに連絡しました。皆さん、温かい励ましのお言葉をかけていただきました。

次の二回試験は今年の11月です。わたしの期はコロナで半年開始が遅れたので、1年に2回、二回試験が行われる珍しい年です。あと1年、と思うと落ち込みが激しいですが、あと半年、となると、ちょうど良い加減なので、この点だけはありがたいです。

あ~あ、なんでこうなるの?どこまで自分に試験が付き纏うのか、なんですんなりいかないのか、自分を責めてしまいます。それでも、老荘思想で、あるがままに生きていきます。そしてその上で大谷翔平のように毎日精進していきます。これがわたしの運命なのだと覚悟しました。

2022年4月10日日曜日

恐怖の二回試験を終えて 3 スカイツリーと浅草と渋谷と江の島と鎌倉

 今から思い返すと、二回試験を受けに行った10日間は、夢の中にいるようでした。現実感がありません。早く一日が終わることだけを願っていました。

二回試験が終わった日の夕方、福岡修習のみんなで成増まで行って飲み会。余り飲まなかったのにかなり二日酔いに。

いずみ寮に帰り着いたのが11時前。そのままお風呂に入らずにバタンキュー。

翌朝、二日酔いのまま帰る準備。1階ロビーに運送会社の人達が待ち受けていて、そこで荷物を宅急便で送ることが出来ました。それでも背中と両手にバッグを提げて寮を出ました。

東京駅八重洲口のホテルにチェックイン。途中の山手線の窓からサクラが満開なのがみえました。

ホテルに荷物を置いて、身軽になってスカイツリー見物。3100円。一番上まで上がりましたが、それほど感動しなかった自分に驚きました。スカイツリー見物を終えて、歩いて浅草まで。浅草寺の本堂に入ったとき、4時58分。入ってすぐに警備員とお坊さんの二人で門が閉められました。滑り込みセーフ。二回試験もこうであって欲しい、と思いました。

浅草は想像以上にエリアが広かったです。京都の四条河原町と似た雰囲気がありました。

二日酔いが良くならないので薬局で消化剤を買って飲みました。

夕暮れ時、渋谷のハチ公とスクランブル交差点を見に行きました。渋谷の発展ぶりに仰天しました。迷子になってしまいました。

ハチ公前にたどり着くと、若者だらけ。密集状態。スクランブル交差点は、これまた意外に感動せず。

その後八重洲に戻って東京駅地下にあるはなまるうどん?みたいなうどん屋でざるうどんを食べてホッとしました。その後ホテルに戻り、お風呂の後、途中で買った缶ビール500ミリを飲んでベッドへ。歩きすぎてふくらはぎが痛くなり、寝ている最中に脚が攣るのではないかと心配しました。

翌朝、またしても大量の荷物を持ってチェックアウトして東京駅に行き、コインロッカーに入れた後、初の鎌倉へ一人旅。

鎌倉から江ノ電に乗って江の島まで行き、江の島見物。駅から江の島大橋を歩いて渡り、島に着くまでかなりの距離を歩きました。江の島に到着したら今度は坂道と階段登りがまた大変。サクラは満開で美しかったですが、足が限界に近づいてきてました。江の島の上の方にお寺があり、その脇に、エスカーと呼ばれる乗り物があるとパンフレットに書いてあったので、一体どんな乗り物なんだろう、と想像していたところ、なんと、ただのエスカレーターでした。ただし有料!

江の島の入口まで戻ったとき、ホテルの横に『レンタル 電動キックボード 30分500円』と書かれたのぼりがあり、ホテルに入ってレンタルしました。これに乗れば楽ちんだ、と思ったのです。ところがいざヘルメットを被ってキックを始めたところ、アブナイアブナイ!

とんでもなく乗りにくいのです。ハンドルが安定せず、道路の段差にもろに引っかかってよろけてしまう上、時速20キロを越えたら電動が急に切れて却ってエンジンブレーキみたいになってしまって急ブレーキがかかるのです。しかもアクセルがバイクみたいなハンドルのグリップではなく、右手の親指だけで上下に下げたり上げたりするレバーなのです。バイク乗りのわたしにとってはとてもやりにくい操作です。

その上、車道しか走ってはいけないと言われ、七里ヶ浜とか由比ヶ浜とかが続く海岸線を走る国道134号線を、トラックがバンバン通る片道1車線の道を、路側帯の段差でハンドルを取られながら、恐怖にまみれて1時間、鎌倉まで乗っていきました。はっきり言って無謀でした。

走り始めて2秒で、もの凄く後悔しました。こりゃヤバイ、死ぬかも、と。

海岸線を見物しながら、なんてとても出来ず、常に後ろを振り返りながら、クルマが追い越してこないか案じながら漕いでいきました。

終点は、鎌倉駅裏のホテル。出発して58分で到着。生きた心地がしませんでした。ですが、その分、鎌倉の若宮大路に辿り着いたときはかなり感動しました。無事に辿り着いたらサクラ満開の大路が出迎えてくれたので。 とても記念になった恐怖体験でした。

鶴岡八幡宮にお参りしたのですが、参道は長く、本殿までの階段がまたキツく、苦労の甲斐あってか、本殿に辿り着いて後ろを振り返ると鎌倉が一望でき、八幡宮が鎌倉のシンボルであるのがよくわかりました。

鶴岡八幡宮の元宮がわたしの実家、宇佐八幡宮であることがちょびっとだけ誇らしかったです。わたしの家は宇佐八幡宮の氏子で、村の道を御神輿がお通りになり、神様のお休み処が設けられたりします。放生会といって、隼人との戦争で多くの死者がでたのを供養すべく、寄藻川の浮殿で宮司が蜷貝(にながい)を放流する儀式が行われるのが、和間というところで、わたしの実家は和間部落の蜷木というところなのです。放生会の本場というわけです。

なので、鶴岡八幡宮にはなんとなく親近感を感じました。

それからさらに江ノ電に乗って鎌倉大仏、長谷寺見物。この日はめちゃくちゃ歩き回りました。どこにいってもサクラが満開。今年は、研修所も浅草も江の島も鎌倉も、どこも満開で、サクラを満喫し尽くしました。

ちょうど生しらすの時期だというので、食べてみました。うーん、という感じ。室見川のシロウオの躍り食いみたい。ちょっと塩味がしましたが、他には醤油の味くらいしか・・・

夕方6時前に東京駅に戻り、焼き肉弁当とビールを買ってのぞみに乗り込み、5時間かけて博多に深夜12時到着。

これでわたしの二回試験が終わりました。本当に夢みたいな非現実感。まさに、夢に胡蝶となる、でした。





















2022年4月9日土曜日

吉野ヶ里遺跡と柳川川下りとウナギと飲み会

 昨日、令和4年4月7日(木)は猛烈にスケジュールがタイトでした。

朝9時、家庭教師先の子供達、お姉ちゃんは今度から高三、弟君は今度から高一、二人ともわたしの教え子です。おおよそ5年間教えてきました。

お父さんがアメリカの方で、5年前まで家族4人でアメリカ暮らしをしていましたが、後両親が別居され、お母さんが2人の子供を連れて福岡に里帰り、実家の眼科医のおじいちゃん夫婦とひいばあちゃんと同居中。

子供達はアメリカ時代、日本語をほとんど話さなかったため、帰国して相当日本語に苦労していました。今でも苦労中です。

わたしが5年前、天神のなんとか講師会という個別指導塾に家庭教師新規申し込みで出かけていったところ、たまたまそこでであったのです。おばあちゃんが2人を連れてやってこられ、当時小学校五年生だった弟君を教え始めたのです。

2人にとって日本語習得は相当苦労したと思います。特にお姉ちゃんの方は、日本語の教科書も読めず、日本語習得のための課程があるはずだった◎◎中学に入学したら、約束に反して来年からしか設置しないと言われ、普通のクラスで授業を受けたため、授業内容がさっぱり分からず、友だちも出来ず、不登校になり、インターナショナルスクールに転校したものの、そこではグループの人間以外は排除するという、意外に閉鎖的な環境で、友だちと言えたのはグループから排除された者同士が寄り添う、という可哀想な人達、ところがその人達がとても癖が強く、案外自己中で、相手を思いやる気持ちが欠けている人が多かったようです。インターナショナルスクールの修学旅行に出かける前は嬉しくてはしゃいでいたのに、帰ってきたら暗い顔をして、イロイロと嫌な目に遭ったと。やはりグループ疎外が原因みたいです。不登校校になり始めたとき、わたしがお姉ちゃんも指導するようになり、日本語の勉強を兼ねて、赤毛のアンの少年少女版を声を出して読ませたりしていました。

結局、インターナショナルスクールも辞めて、通信制の高校に編入しました。そこでようやく日本人の友だちが出来、表情も明るくなってきました。

それで、春休みになったらドライブに連れて行ってあげる、と前々から約束していたので、昨日2人を連れて、吉野ヶ里、柳川川下りをしてきました。

吉野ヶ里は初めて行ったのですが、大変勉強になり、どっちかというと子供達よりもわたしの方がはしゃいでしまいました。

吉野ヶ里は縄文時代からすでに人が暮らしており、奈良時代まで続いたそうです。

わたしが、係の方に、縄文から弥生に移行する際、弥生人が縄文人を追放とか虐殺とかしたのか、と尋ねたところ、そうではなくて混ざり合ったということでした。よかった。

しかしまあ、吉野ヶ里の防御態勢は異常なくらいでした。敵の襲撃が頻繁で強力だったことが分かります。真っ暗な夜に襲ってきたら、と思うと、怖ろしいです。弥生時代は、ウクライナに攻め込んで大虐殺を行ったロシアと同じようなことが起きていたのだと思うと、恐怖です。甕棺の中に埋葬されていた人の骨には頭蓋骨が無く、体の骨の一部に刀傷があるレプリカが展示されていました。

その後、柳川に。福岡から国道385号線が真南に一直線に走っていて、佐賀県との境にある五箇山ダムを越えて佐賀平野に降りるとすぐに吉野ヶ里、それをさらに南下すると柳川にたどりつきます。福岡から柳川まで一本道で60キロ。

柳川で、三柱神社の鳥居の前の川下り乗船場に。三柱神社は、わたしが大好きな戦国武将で柳川藩主になった立花宗茂をお祀りしている神社で、乗船時間までの間に3人でお参りしてきました。立花宗茂は、ミスターパーフェクトと言われる、戦国一の武将で、徳川家康が最も怖れた男でした。部下を大切にし、全ての情報を部下と共有し、秘密を持たず、戦死した家来の名前を全て記録に残し、毎年彼らを供養した、と、他にそのようなことをした武将は誰一人居ません。朝鮮出兵の際、碧蹄館の戦いでは明軍10万人に対し、立花軍1500で立ち向かい、見事明軍に勝利したのです。関ヶ原の戦いでは、西軍に与したため、家康は、立花宗茂が関ヶ原に到着する前に決着を付けようとしました。宗茂が関ヶ原に到着したら東軍が負けてしまうからです。宗茂はその後改易となり素浪人になってしまいました。しかし大名も家康も宗茂の戦歴のもの凄さ、人間としての素晴らしさから、ほおっておくことをせず、二大将軍秀忠のお伽衆、戦国時代を生き抜いてきた大武将の知恵と戦略、思想を将軍に教える役に就きます。そしてとうとう、西軍でただ一人、領地を没収された後同じ領地を復活させた大名となったのです。いつか必ず、立花宗茂を主人公とする大河ドラマが作られるでしょう。リストラされてもめげずに努力して復活するというドラマチックなお話もさることながら、宗茂の人間性がとてつもなく魅力的なのです。

わたしの宗教は、大谷教と宗茂教です。大谷翔平選手と立花宗茂を日々思って精進しなければ、と思っています。もちろんベースにあるのは老荘思想ですが。

話を川下りに戻すと、25年前に乗ったのとは違うコースで、また良かったです。多分乗船場が違ったので違う会社だったのでしょう。

沖端の終着点で降りて、若松屋でせいろ蒸しを食べる、はずだったのですが、大ちょんぼ!

せいろ蒸しを頼んだつもりだったのですが、出てきたのはうな重。え?と思ったのですが、わたしが注文したのは松定食。メニューの左側にせいろ蒸しの写真があったので、せいろ蒸しが松定食だと思い込んでしまったのです。ただ、接客した奥さんの前で、子供達に向かって、『せいろ蒸し食べたこと無い?柳川に来たらせいろ蒸しを食べないとね。』なんてことをしゃべっていたので、奥さんは当然せいろ蒸しを我々が食べようと思っているのを分かっていたと思うのです。なので、『松定食はせいろ蒸しじゃありませんけど』と教えて欲しかったです。

うな重の味ですが、残念ながら、でした。博多の吉塚うなぎのうな重の方が10倍おいしいです。せいろ蒸し用には、ぽってりした味付けにしないといけないのだろうと思いますが、せいろ蒸しならそれが美味しいでしょうけど、うな重にするときはもっとあっさり、淡泊にしないと美味しくないと思いました。

子供達に申し訳ないので、その後行った、お花という立花家の別邸の売店で、せいろ蒸しのおにぎりのお土産を子供達に渡しました。結構なお値段で、一つ480円!それを6個渡しました。

で、ダッシュで福岡に戻り、夕方6時からの修習生の飲み会(おそらく全員揃うのは最後、13人出席して4人だけ福岡で弁護士に、残り9人は、検察官一人以外東京で弁護士に)にギリギリセーフ。これから先みんなと再会するのは誰かの結婚式でしょう。












2022年4月6日水曜日

閑話休題 老荘思想

 二回試験が終わり、福岡六本松の蔦屋書店に行きました。わたしが今度お世話になる(そうなってほしい)事務所が、同じビルにあるので、そこの事務所の先生に挨拶に行ったのです。

すると、老子の解説本が目に飛び込んできました。

わたしが、高校時代、漢文の授業でもの凄くインパクトを受けた漢詩が、荘子の『夢に胡蝶となる』という詩でした。荘子というのは老子の思想を分かりやすく具体的に説明してくれたような人です。この詩から、人間の意識というものが極めて主知的である、ぶっちゃけ、目をつぶれば世界が消える、というものだとわかりました。

意識こそが人の本質だと思ったのです。そしてそれは50年前の感想ですが、今でもそう思っています。夢の中で自分がチョウチョになってヒラヒラと舞っていた。そのときの自分は楽しくて仕方がなかった。他方で、夢から覚めた自分がここにいる。一体どっちの自分が本当の自分か分からない、いや、どちらの自分も本当の自分なのではないか、なぜならどちらにも自分という意識の主体が居たからだ、というのです。

今考えると、わたしのこれまでの人生はほとんど老荘思想の影響下で彩られてきたような気がします。

わたしが一番好きな自然は、雨と風です。雨の日は物思いに耽ったり雨に濡れたツツジを見ながら散歩したり。久住や阿蘇に行くと強風が吹いて、青空に浮かぶ雲がぐんぐん早足で飛ぶように去来します。春の暖かな日向で爽やかなそよ風が頬に当たるのも好きです。

こう考えると、なぜ雨や風が好きなのか、その理由は、地球の動きを肌で感じられるからではないか、と思えてきます。


恐怖の二回試験を終えて 2

 二回試験の怖さ、の正体は?

それは、受験する人達が皆司法試験合格者だということです。

で、司法試験合格者という人種は、大体優秀です。その意味は、①すばしっこい良いヤツすなわち要領よくコツを掴むヤツ、②そもそもの地頭が良いのでなんでも簡単にこなすヤツ、③アタマは硬いけど地道に努力するヤツ、④それらのミックスタイプ、⑤以上のどれにも当てはまらないのにたまたま偶然受かったヤツ、です。大体、というのは、⑤該当者がごく少数だということです。

ではわたしはどうか?③④⑤の混合型かなあ?

本題に戻ると、二回試験を受験する修習生は1440人+前年の二回試験不合格者10人=1450人

くらいです。科目は民事裁判、民事弁護、刑事裁判、検察、刑事弁護、の5科目。

試験時間は午前10時20分から午後5時45分まで、7時間25分。途中12時から1時まで昼食を試験を受けながら食べます。起案を書いたり記録を読んだりしながらたべることが出来ます。

長いように思われますが、あっという間です。なにせ事件記録の量がもの凄いのです。70ページの本体と40ページの資料の二冊とかいう科目もあります。

その上、一番嫌らしいのが設問の出し方です。イジワルそのものです。3回以上はよーく読み直さないととんでもない引っかけとか落とし穴がそこかしこに潜んでいます。裁判官のイジワルさは凄いです。アタマが混乱して爆発するくらいこんがらがらせてます。

と言う具合に何もかも嫌らしいのですが、実際に二回試験に落ちるのは、各科目につき1人か2人です。

なので、本来は落ちない試験です。理性では分かっています。ですが、その1人、2人の中に自分が入ってしまう可能性がゼロではないと思うと、理性が瓦解してしまいます。

二回試験は水、木、金 土日の休みを経て 月、火、と実施されますが、金曜の試験後、新宿のゲイバーで夜通し騒いで朝帰りしたという豪傑もいます。

マジで尊敬します。

わたしは、土曜日に2時間ほどてくてく散歩したくらいです。丸1週間、麺類を全く口にしなかったので、うどんとか蕎麦とかに飢えていました。ところがうどん屋がほとんど無いのです。たまにあるのはそば屋。でも、なんとなく蕎麦は消化が良くなさそうで、やはりうどんが一番。で、散歩途中にあった和食チェーン店でざるそばを食べて少しだけ満足。

あとは、洗濯と勉強。今思えば研修所の寮ではほとんど勉強マシーンみたいになっていました。普段勉強嫌いなのに、二回試験に落ちる恐怖を思うと、勉強以外出来なくなってしまうのでした。

科目的には、民事裁判が一番ヤバイです。とにかく難問でした。引っかけもいっぱいありました。原告が撤回した主張があり、何故撤回したのか理由を書けという設問が分からなくてイロイロ思いついたものを全部書きました。少しは点数を下さい、という切なる思いで。

なので、民事裁判はかなり焦りました。昼食時間には絶望感に包まれました。でも、どうせ落ちるのは2人くらいしかおらん、しかも民裁はめちゃくちゃ難しくて嫌らしい、悶絶しているのはオレ一人だけじゃない、と思い直して、みんなが書くようなことだけ短くても書いていれば大丈夫だ、と立て直しました。




2022年4月5日火曜日

恐怖の二回試験を終えて 1

  3月21日午前6時発ののぞみに乗って埼玉県和光市の司法研修所いずみ寮に。

もの凄い量の白表紙(研修所から送られてくるテキスト類)が入った古いトランクが重くて動かなくて、東京駅のコンコースで途方に暮れました。なんとかして池袋まで山手線に乗ったのですが、これ以上無理と判断し、池袋からタクシーで和光まで行きました。5000円でした。でも良かったです。二回試験で腕が上がらなかったり腰が痛んだりしたら大事ですから。

いずみ寮はコンクリートの塊みたいな殺風景なところ。寮の外の本館もコンクリート。寒々しい感じ。研修所の周囲がまた、税務大学校の馬鹿でかい敷地、広大な和光市樹林公園、練馬区立大泉中央公園と、人気が無いところにあります。

翌日は雪が舞う真冬の天気。その上私の部屋のエアコンが故障して、ヤバいくらい寒かったです。事務室に修理をお願いしましたが、やってきた係の人もお手上げ。

食事はマズくて有名な食堂で。覚悟していたのよりはまともでした。ただ、朝昼夜毎回、味噌汁は具が無し、化学調味料いっぱいの、同じ味。ご飯は古古米みたい。その上、こちらも恐怖と緊張で食欲がないので半分くらいしか食べることが出来ませんでした。若い修習生たちの中にはご飯大盛りとかお代わりとかしているのもいて、若さってイイナ、と思いました。

二回試験で落ちないためには、科目毎の思考の型、起案の型をたたき込むしかない、と思い、教官が動画で即日起案の解説をしていたのを何度も何度も見直し、参考起案を何度も何度も見直して、イメージを確立することに全力を挙げました。

5科目の試験は、どれも似ているようで違う思考パターンで書かないとヤバイのです。






2022年2月27日日曜日

また、親友が旅立ってしまった・・・・サビシイ・・・哀しい・・・悔しい・・・

 岡本政隆君が2022年2月21日に旅立ちました。

昭和59年からの長い長い付き合いでした。謹んでご冥福をお祈りいたします。

この前は山本哲久くんという大学時代の大親友を失い、今回は、わたしが司法試験に受からないので京都から地元福岡に戻ってこい、と父親から命じられ、都落ちして九大の司法試験答案練習会に入るべく、はじめは千代、その後筥松に下宿したとき、筥松で初めて岡本君に会ったのでした。それが昭和59年でした。

下宿があった場所は、鹿児島本線の間近、線路から5メートルも離れておらず、特に夜、夜行列車や貨物列車が通るとき、旅愁を感じる部屋でした。

その下宿は2階建て、木造で、4畳半に二段ベッドみたいにベッドがはしごを上がった上の方にありました。わたしが住んでいた1階部分は、この4畳半の部屋の壁を取り払って広くした、9畳ほどある部屋でした。

続きはまた。一昨日、コロナワクチンの3回目の接種をして、今朝から発熱しており、岡本君の訃報でもの凄く心が萎えきってしまい、今は日曜日午後10時ですが、寝ます。

明日は朝から裁判所で民裁起案2回目、6時間半書きっぱなし。もしかしたら裁判所の玄関で入るなと入館拒否されるかも。明日朝の体温が心配です。

2022年1月2日日曜日

2022年、令和4年1月2日





 新しい年になり、ブログを再開しなければならないと思い立ちました。

昨年、令和3年は、あらゆる意味で人生最大の年でした。

40年以上続いた受験生活が、ありとあらゆる幸運に恵まれて、競馬の最後の追い込みそっくりに、鼻の差でゴールできました。

その後の修習は、マジで大変でした。修習は今も続いています。3月23日から29日まで二回試験という最後の難関が待ち受けています。この試験に落ちると、来年の二回試験まで浪人。落ちる人数は、1400人あまりの修習生の内、10数人にすぎませんが、落ちるはずのない優秀な人も落ちることがあるそうです。わたしは全然優秀でないので、もっと怖いです。

人と同じことを考え、同じことを書くのが大事だと忠告されました。平身低頭で行け、とも。

こだわるのが私の性分で、人と違うことをしたい、書きたいと思ってしまうので、肝に銘じないと、と思います。

もしも二回試験が無事に通ったら、福岡の裁判所の建物に県内で一番近い場所にある法律事務所にお世話になることになりました。事務所から福岡高裁地裁家裁簡裁ビルまで徒歩100歩、福岡地検まで徒歩30歩、福岡県弁護士会館まで徒歩50歩の、法曹村にあります。九大法科大学院の施設内に事務所があります。もう、絶対に二回試験に落ちてはならないと、今から猛烈に緊張しまくっております。まさか!を大量に経験して参りましたので、また、まさか?!になるんじゃないかと、怖くて恐くて。