2021年3月8日月曜日

 

試験関係の資料、答案、レジメを、思いっきり捨ててきました。

これは残しておこうかな、と思う物もありましたが、置き場所がないので仕方なくバイバイしました。

それと、研修所から送られてきた書物はほとんどが事実認定の訓練のための物で、教科書的な本は意外にも前から持っているものがほとんどでした。問研、類型別、起案の手引き、検察講義案など。かつまた、こいつらが紙質が悪くてボロ紙で印刷され、その上市販のものより小さい(検察講義案以外)。ジジイには見つらく、イライラします。

検察課題に取り組んでいる人はまだ少ないみたいです。もっとも、未修で一発合格したヤツはすでに書き始めた、と言ってました。ムムム。さすが。

福岡修習でも、ひょっとしたら北九州とか筑豊に配属されるかもしれないことが分かり、小さくおののいています。果たして4班は何処に行くのか?

2021年3月5日金曜日

大腸カメラ検診で地獄の1日






3月1日月曜、朝9時にクリニックに行き、個室に入って下剤を飲み始めました、食塩水に大量の味の素をぶち込んだような、吐きそうな味、それをはじめに1リットル、出なかったら更に1リットル、時間をかけてちびちび飲めと言われました。マジで吐きそうでした。中々出なかったので結局飲める最大量である2リットル飲みました。その間、水も2リットル飲んで、最終的に午後2時半の24回目のトイレでようやく水のようなヤツがお尻から水道の蛇口のようにシャーっとでました。これでようやく準備が完了。5時間半もかけてお腹の中に残っていた物を全部出しました。苦しかったです。はじめは午前中に全部終わると思い込んでました。なのでイライラが募りました。
全部出た後、診察台に乗って点滴、その中に麻酔が入っていて、すぐに昏睡状態。気がついたら30分くらい経ってました。看護婦さんが、『終わりましたよ、あちらのチェアで30分ほど休んでください』と言われ、その後着替えをして待合室で待つこと5分。先生に呼ばれ、そこカメラで撮った写真を見せられ、説明。5ミリほどの大きさのポリープが結腸にありました。切除しました。きれいなポリープなので、癌では無いでしょう、とのことでした。ホッとしました。後でパソコンで大腸癌の画像を検索しましたが、5ミリ程度のポリープは切除しておいた方が良い、さもないと大きくなって癌化する危険がある、とのことでした。また、たしかに悪性のポリープは色と形がちと厳しい感じでした。
ともあれ、クリニックから外に出たのは日も暮れた午後6時!丸一日もかかるなんて思いもしませんでした。長椅子に横になりながら本でも読もうと、読む本を持って行ったのに、それどころじゃありませんでした。毎分一口ずつ下剤を飲まなければならないので、本を読む余裕なんてありません。
ただ、今になって感じたことは、たとえ一日かかっても、たとえ地獄のような下剤飲みの苦行が待っていても、やはり検診を受けて良かったなあ、ということです。ネットでは小さなポリープでも2~3年で大きくなるそうで、早めに発見切除しておいたに越したことはないと分かったからです。
さあ!次は来週また同じクリニックで今度は胃カメラだ!こうなったらとことんやるぞ、という気持ちになりました。検査慣れというのも大事だなあ、とシミジミ。




 

2021年2月23日火曜日

大航海→大後悔

 令和3年2月20日土曜日に、壱岐に一泊で出かけました。半分仕事で女房と。朝10時に博多港を出発しました。壱岐まで2時間半の船旅。フェリーでした。気温は暖かく、空も晴れていたのですが、風が強く、そのため玄界灘は大時化。フェリーはボワンボワンと上下に揺れ、時たま、ガツンと大波にぶち当たってました。体が真下に落下するような揺れ方だったので、吐き気がもの凄くて、出港して1時間後に、我慢できずにトイレに駆け込み、ゲーゲー。おまけに朝からお腹の調子も悪かったので、上からから下からから、同時に攻撃されました。

本当に死にたくなりました。一生、食べ物は要らない、と思いました。

壱岐に到着後、郷ノ浦という港を探索。ゴーストタウンみたいでした。悲しくなりました。気分を回復させるため、かなり歩き回りました。昔は人がわっさわっさ歩いてて、商店街も賑やかだっただろうに、今ではどこもかしこも廃業したり空き家になってたりしてて、時の移ろいの残酷さが身にしみました。

とりあえずお腹に優しいから、と、うどん屋を探しました。廃れたアーケード街の中の小さな小さなうどん屋さんの、かなりマズいうどんをゆっくりゆっくり噛んで食べました。

ビジネスホテルに帰って昼寝。ところが空調がかび臭くて、肺が悲鳴を上げました。

日が暮れて、少しはお腹がすいてきたので、女房と二人、人っ子一人いない暗い街を歩き、福壽飯店という中華に。ところがこれがかなり旨かったのです。

又来年もこの店の料理を食べるためだけに壱岐に来たい、とすら思ったほどでした。

翌朝、用事を済まして夕方5時に今度はジェットフォイルで65分、帰路につきました。今度は水中翼船だったので揺れも少なく、快適に過ごせました。

かなりきつい船旅でしたが思い出深い旅になりました。でも今度壱岐に行くときは絶対に!フェリーでは行きません。






2021年2月19日金曜日







 昨日、令和3年2月18日(木)一昨日、令和3年2月17日(水)は強烈に寒かったです。吹雪が台風みたいな強風の中で吹き荒れ、バイクでゼミや家庭教師先に向かうとき、寒さと強風による転倒の恐怖で体中が縮み上がりました。

一転、今日は穏やかな日よりで、ローから別府橋下のうどん和助に歩いていたら、まだ肌寒い中に春を感じました。試験を受けなくてすむありがたさに感謝。やっと合格証書が届き、もはや、お前の合格を取り消す、なんて怖ろしいことは起きない~、とようやく確信できました。

先日机の中を整理していたら、以前予備試験を受けたときの結果ハガキが出てきました。

論文合格点は245点。論文合格者は429人でした。

その年のわたしは240,85点  494番 でした。4,15点足りず、65番差で落ちました。

短答受験者12700人、うち、短答合格者=論文受験者2310人、論文合格者429人、でした。

今思えば大馬鹿者だったのですが、この年は九大ローに再入学しており、どうせロー卒業資格で司法試験を受験できるから、予備試験は落ちてもかまわないという気楽な気持ちで受験したのです。その結果、わずかの差で落ちたのですけれど、ほとんどくやしさはありませんでした。むしろ、ロー卒業に集中できるから却って落ちた方が良かった、なんて愚かなことを思ってました。ところが、ローの卒業前の期末試験で民事法総合を落としてしまった!のです。赤松教授のせいで落とされたのです(本当は自分の馬鹿さのせいですけど)。なので、司法試験受験が1年延びてしまいました。あの時予備試験を真面目に受けておけば今頃は~と後悔しました。自分はやっぱりツイテナイヤツだなあ。自らツキを捨ててしまった、と悟りました。



2021年2月12日金曜日

微熱が

 風邪の引き始めの兆候が出始めました。

微熱、体の節々が痛い、少々の頭痛、です。ただ、正月からずっと続いていた胃腸の痛みがかなり治ってきていて、おかげで、風邪の特効薬である、バナナ、半熟卵の黄身、イチゴ、ビタミン剤、は無理せず食べることが出来るようになりました。

コロナに感染したわけではないとは確信しています。いつもの通りの風邪です。予兆は昨日ありました。汗をかいたのに放っておいたのと、そのままローの自習室でうたた寝してしまったことです。寒いなあと思いつつも眠気に負けて服を着るのが億劫になってしまったのです。

今朝は7時間寝ました。多少は踏みとどまった感じです。しかし自宅の自分の部屋は北向き、隙間風で超寒いのです。ローは暖かいので頑張ってローまで来ました。昼はうどん和助という結構おいしいうどん屋で肉うどん+生卵。お腹の調子が戻ってきました。痛くもなく吐き気もしませんでした。ローに戻って家庭教師の準備の印刷をフーフー言いながら終わらせ、レンタルしてた洋画『カラシニコフ』(自動小銃の傑作を作ったロシア人の伝記映画)を見ていたところ、私の背後に人の気配が!振り向くと、中山先生がパソコン画面をのぞき込んでいました。

一瞬、ヤバイ!勉強サボっているのを見られた、と動揺しました。嗚呼、受かってて良かった、、、

わたしの居る自習室と中山先生がいらっしゃるリーガルクリニック法律事務所とは歩いて20歩、なんの障害もありません。中山先生は事務所から珈琲サーバーを持参されてわたしたち(自習室には現在3人居ます)に珈琲をごちそうしてくれるのです。で、コーヒーをいただきながら世間話や法律、司法試験などの話の花が咲きます。

ロシア映画も中々面白い物です。というか、アメリカ映画はなんとなくつまらない感じがします。北欧とかイスラエルとかトルコ、イランなどの映画の方が面白いです。

今、女房と毎日楽しみにしているのが、中国の清朝時代のドラマ、月に咲く花の如く、です。その前の瓔珞(えいらく)も面白かったです。韓国の俳優さん女優さんよりも中国の方々の方が日本人の顔に近いなあ、と思いました。また、中国人の顔はバラエティに富んでいて、そういうところも日本人と似ています。最近の中国ドラマが面白い理由は、ワイヤーアクションみたいな無駄な演出が無く、人間ドラマを濃密に、しかも壮大なスケールで描いているからです。日本のドラマの完敗です。韓国のドラマはネチっこいところが、良い点でも有りやり過ぎる点でもあります。感情が溢れすぎ。理屈が無い。それに比べ、中国ドラマは合理性を重視しているのが良いところです。もしも、月に咲く花の如く、がゴールデンに放送されたなら、大反響、超高視聴率を取ること間違い無しです。そうしてくれたら日本のドラマの質も向上するのに。


2021年2月7日日曜日

山本哲久くん

 昨晩、友だちの女性弁護士から備前焼のコーヒーカップの夫婦茶碗が送られてきました。最初のローのとき、同じクラスで九大図書館(箱崎にあったものの、今は無し)のゼミ室でよくゼミをしていました。木々に囲まれた渓谷を流れる清流のような方で、澄んでいてキリッとしていて、でも穏やかで、しかも声がとてもきれいな方です。いただいた備前は、色合い、肌触り、形、どれをとっても素晴らしく、一目惚れしました。いろんな素晴らしい方が自分の周りに居てくれる、というのはありがたいことです。

友だちと言えば、はまやんという宮崎の大親友もまた、得がたい大親友です。彼とは二人でよく女房に隠れて久住、阿蘇、別府、筋湯温泉、古湯温泉なんかにドライブに行ってました。彼とはホントに波長が合うのです。このブログのわたしの写真を撮ったのもはまやんです。別府湾を見渡す高台で取ってもらいました。大病を患ったのに、明るく前を向いて進む精神は見上げたもので、尊敬します。


そして大学時代以来、終生の友だったのが山本哲久です。鳥取出身で、二人とも二浪して京大に。入学前に下宿探しをして北白川のボロい3畳しかない狭苦しくてクーラーも何も無い下宿を下見していたとき、チラッと彼を見ました。そのときは同じクラスになるとは思いませんでした。入学後、そのボロい下宿の8人くらいは入れる内風呂(1日おきにしか入れない)に行くと、なんと入学式に同じクラスにいたヤツが風呂に入っているではありませんか!二人とも同時に『おーっ!』と言いました。

それから、ほぼ毎日、山本と夕方にジントニックを飲むようになりました。前に書いたように、それが一番安上がりだったからです。冷蔵庫が無い生活だったので、買ってきた冷たいスプライトにジンをぶち込んで一気飲み。すぐ酔っ払うのが良いところでした。

山本も、上に書いた女性弁護士と同じく、不正を憎み弱者を助ける、ピュアな、あまりにも 純粋な人間でした。

鳥取県庁に就職しましたが、エリートコースの財政課に配属されたので、受験勉強ができない、と、数年で辞め、民間企業に転職しながら鳥取からバスに乗って京都の答案練習会に参加していました。前日答案練習会の前日、熊野神社に引っ越したわたしの下宿に泊まり、寒かったので日本酒と湯豆腐で酒盛りをしていました。

山本は、島根ローに入り、鳥取に一人息子を残し、松江で一人暮らししながら司法試験を目指していました。重い病でローに行けなくなり、夢の途中で他界しました。葬儀に参列し、友人代表として、思いの丈を叫びました。なんでだ?なんで逝ってしまったんだ?バカヤローって言ってしまいました。あとでお坊様に叱られました。

去年、試験後、出雲大社にお参りに行きました。女房の守り神様が出雲大社である、と、占いをする人から言われたためです(わたしの守り神様は霧島神宮らしいです)。で、松江の町も見て回りました。素晴らしいところです。品があって、華やかさがあり、又是非来たいと思いました。その松江に、山本の夢が残っている、と思うと、胸が熱くなりました。いつか一緒に受かろう、と湯豆腐をフーフー吹きながら語り合っていたのを思い出しました。

京都の青春時代を語り合える心の友が居ないのはとても寂しいです。彼の墓前で報告したいです。お前の分も受かったぞ。お互いもっとはやく受かりたかったなぁ、オレも馬鹿だがお前はもっと馬鹿だ、受かる前に逝きやがって、、、、、と。


わたし自信、今週木曜日にCT検査をして、膵臓検査をし、翌日、舌ガン検査をしました。どちらもセーフと言われ、安堵感で脱力してしまいました。次は、大腸がん内視鏡検査をしましょう、と医者に言われ、ハイ、と言ってしまいました。