2008年9月26日金曜日

雨が蕭々と降っている







三好達治の詩です。大好きな詩です。阿蘇の草千里を詠んだ歌です。



今ちょうど深夜零時です。雨がしっとりと降っています。



もうすぐ後期の授業が始まるので段々とローに学生が増えています。



ロー内にはゼミ室が二つあるのですが、その部屋を予約するのは激戦です。



頻繁にゼミをやってるグループがいくつもあるのです。



月末にわたしも予習ゼミをやろうと思うのですがなかなか部屋が取れません。



今年の新司法試験公法系、憲法は旧試験とあまり変わらない中身でした。



受験生答案もぱっとしなくてレベルがそんなに高くなさそうな感じです。



行政法も、自分の実力は脇に追いといて言わせてもらうと、基本的な感じでした。刑法も旧試験の過去問をつなぎ合わせた感じです。



やはり法律の試験である以上そんなに変わらないのでしょうね。わたしの個人的意見ですが、問題文が長いことで、知識の吐き出しがかなり減るのでは、とおもいます。つまり、旧試験では問題文が短いので何が問われているのかがすぐわかりました。けれども新試験では何を書くべきかがぱっと見ただけではよくわからないので、まさに問題を発掘して解くという意識が必要です。



けれども一旦発掘したらあとは旧試験と変わりません。むしろ下らない論証なんぞを書かずにいきなりズバッと問いに答えることができるので、気分が良いです。






今日夜帰ってきてポストを見ると、ねんきん特別便が入っていました。例の桝添大臣のやつです。



本物です。でも不思議な感じです。まるでオレオレ詐欺の電話がかかってきたような感覚です。
下の写真は清川にある石村萬盛堂のアウトレット店、半額以下でお菓子が買えます。夜11時まで。



2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 質問
 なぜ新司法試験には論証がいらないのですか。

あんみつ さんのコメント...

はまやんさん、コメントありがとうございます。
論証とは何でしょうか。そこから考えてみましょう。
早い話、完璧な法律だったら論証は要りません。
ただ単に、①事実を認定して②完璧な法律に当てはめて③結論(法効果)を導き出して紛争を解決すればいいわけです。
 論証が必要なのは、必要な規範が法律にちゃんと書いていないからです。
そこで、解釈によって新たに規範を作り出さなければなりません。
ところがどういう規範を作るべきかについてはどの利益を中心に考えるかによって見解が分かれます。そこで自分の立てた規範がいかに優れているか、を『論証』しなければなりません。その意味で創造的です。
 しかし、実務の世界では判例を中心に動いていますので、判例が作った規範が成文法のような働きをしています。
 ですから、上の①②③の手順において、②の段階で判例法が法律の穴を埋めているので、判例を法律として使えばよいのです。
したがって、『論証』がでてくることはありません。
旧司は、裁判官が判決を書く際、適用条文が無いときにどのようにして紛争を解決するか、という、シチュエーションを想定しています。その意味で裁判官採用試験です。
 それに比べ、新司は、複雑な事案を適切に実務的に、マニュアル的に処理する能力を試す試験です。ですから法律をそのままダイレクトに当てはめれば良い場合には、なぜその規定が設けられたのかという趣旨なんかは書くべきではありません。書いても意味がないからです。意味がない、というのは、当該紛争の解決のためになんら必要性がないからです。たんに知識をひけらかしているだけです。
 むしろ新試験で必要なのは問題の解決能力です。そのためには、問題点は一体何なのか、どこに問題点があるのか、という問題発掘能力、その問題点はどの法律のどの条文に関する問題なのか、という関係条文を引っ張り出せる能力、それについての判例(あればの話)、その判例の射程距離、本件との事案の異同、判例の立てた規範の修正の是非、なんかが重要です。新司における創造性はここにあります。つまり、既存の判例の事案と本件とで事実のどこがどれくらい違うのか、その違いの大きさによって既存の判例法がどこまで修正すべきか、を論ずるときです。

ですから、たとえば最高裁判例に逆らった規範を立てるのはその最高裁判例がよほどの悪判例であるばあいに限ります。そこまで行かないときは、既存の判例をどうにかして修正するような努力の方が有益です。それとか、問題の事案に最も近い判例を探し出して提示できる腕力などです。

たとえば、甲と乙が窃盗を共謀し、甲が実行し、乙が犯行場所の見取り図を準備したが犯行を実行してはいない場合、共同正犯が成立するか、と言う場合、


旧司では、条文解釈論として、犯行を実行していない以上そもそも60条が二人以上共同して犯罪を実行したとき、に当たらないのではないか、二人以上共同して、とは一体どういう意味か、と言う問題から書かなければならない(と受験予備校は指導してきました)。
こういう問題意識がわたしの言う『論証』です。
 これに対し、新司では、判例が共謀共同正犯を肯定したケースとどこが違うか、どこが同じか、どこまで共通していたら共謀共同正犯として肯定できるか、を検討する必要があり、その際はじめて、判例が共謀共同正犯を肯定した趣旨は、実行に出ていない者が実行者を支配していた場合とか、犯罪遂行にとって重要な地位を占めていた場合とかに限定している。それは、共同正犯の成立根拠が相互に相手を自己の犯行に利用しようとしていることにあるからだ、だから相互利用の典型的なケースとして、支配とか重要な地位とかいうメルクマールがでてくるのだ、そうだとすれば、本件では見取り図を渡した点で重要な地位を有しているし、分け前をもらう意図がある点で相手を利用しようとする意思もある、だから共謀が認められる、と書きます。
つまり、自分が実務家なら裁判で勝てるか、どうすれば勝てるか、が重要なんです。勝つためには相手を納得させなければならない。それに必要十分な文章だけが書くべき文章です。