流行中だそうです。
20年近く前、これにやられました。正月直後でした。実にやっかいな肺炎です。ワクチンが効かないんです。
わたしの場合、熱はそれほど出なかったのですが、乾いた咳が止まりませんでした。ゲホゲホと、喉や肺が痛くなるほどの強烈な咳ではないんです。狐の鳴き真似をするときのような小さな咳が出るんです。ですが、それが止まらないんです。
あんまり咳が止まらないんで、気管支炎かなあ、なんて思いながら病院に行くと、レントゲン写真を見た医者が、すぐ入院しろ、と命令したんです。しかも、これは伝染病だから隔離します、と。なに~~~~っ???でした。
結局1週間以上入院する羽目になりました。
入院経験は後にも先にもこれっきりです。
それで、毎日朝晩2回、抗生物質を点滴注射するんです。これが実にきつかった。
なんでも、抗生物質を肺まで運ぶためには大量の抗生物質を一時にどばっと注入しなければならん、ということでした。
この抗生物質のせいで体調が変わってしまいました。
退院後、みんなが退院祝いをしてくれて、近くの居酒屋で宴会を開いてくれたんですが、そのときに生ガキのすがきを食べたら、わたしだけ当たってしまったのです。
その晩は七転八倒、死ぬかと思うくらい腹部に激痛が走り、上から下から3分に1回出るんです。悪魔の手のようなかぎ爪でおなかを引っかき回されたようでした。一晩中トイレの中でしゃがみつつ洗面器を口元に近づけてました。
そのとき以来、牡蠣が食べられなくなってしまいました。数年たって2回チャレンジしました。もう体調が回復しているかも、と思って。
で、どちらも全く同じように死ぬ思いをしました。特製チャンポンの具に入っていた小さな牡蠣をたった1個食べただけなのに。
マイコに感染した理由は、塾の生徒からだと思います。
そのとき以来、手洗いとイソジンガーグルが必須アイテムとなりました。
400回目の投稿にしてはぱっとしない内容ですが、もともとそういうブログなので、ちょうど良いと言う気がします。
皆様、今後ともどうぞよろしくお願いします。
2008年12月21日日曜日
2008年12月20日土曜日
399回目の投稿
チリも積もれば、とはよく言ったものです。この前、300回目のときも同じようなセリフを吐いた覚えがあります。
ロー人生活は時間の経つのが早いです。この点、昨日のコンパでわたしがそう言うと、全員同じ意見でした。本当に1週間があっという間に経つのです。
ですから、ついこの前300回に突入するとかでわ~わ~騒いでたのに、それがもう400回なんで、自分が一番驚いています。
ブログを始めて良かったと思います。記録になるし、文章を書くという癖を付けることが出来るし、日本中の人に見られる(大袈裟な!)と思うとサボれなくなるし、わたしにとっては良いことずくめです。
本当に便利な世の中になったもんです。昭和の頃、こんな情報伝達方法なんぞ想像すらできなかったのですから、
やっぱり、今って21世紀なんですよ。夢の世紀にいるわけですよね、我々は。
さっきまでパソコンとプリンタで遊んでました。DVDに昨夜のコンパビデオを焼いたのですが、表面に写真を印刷できる技を会得したのでデジカメで撮った写真をそのDVDディスクの表面にプリントしてたのです。
ディスクに文字を印字するだけでなく、好きな写真も焼き付けることができるので、見栄えがすっごく良くなるんです。
また一つ、賢くなりました。
今の生活に比べると、浪人生活時代はだら~っと生きていました。起床時間が遅かったのですぐ夕方が来るのです。空しさに包まれていましたのでその夕暮れの寂しさは相当こたえました。特に塾講師を首になってからは落ち込みが激しかったです。
小人閑居して不善を為すというのはその当時のわたしのことでした。忙しいということは有り難いことなのだ、有り難いことだと思います。
今日はお歳暮だとか買い物だとかの用事を済ませて昼過ぎにローに行くと、いるいる、みんなやってました。勉強を。
昨夜盛り上がった連中もいました。
わたしも早速控訴趣意書についての課題に取りかかりました、が、ほどなく例の睡魔が訪れてきてしまいました。
夕方、博多駅バスセンターの4階にある100円ショップに買い物に。セーラーのジェルインクボールペンが凄く気に入っているのですが、何故だかダイソーにしか売っていないのです。
バスセンターの3階は長距離用の発着所です。ひっきりなしにバスが出て行きます。東京名古屋大阪に向かう発着所でもバスが止まってました。博多から東京まで1万5千円、と書いてありました。
バスセンターには列車のホームとは違う雰囲気があります。余計に哀愁を感じてしまうんです。なんででしょう。一昔前の雰囲気があるからでしょうか。
ちょうど今、窓の外から雨音がし始めました。暖かい雨です。
呉服町に驚くべきカフェが出来てました。ほんと、びっくりしました。おせんべい屋さんが無料で、つまり、タダでせんべい食べ放題、コーヒー、お茶飲み放題のカフェを作ったのです。
今日は忙しくて外から観察するだけでしたが、そのうち中を探索してきます。
2008年12月19日金曜日
ハムラビ法典健在

イランでものすごい判決が下されました。
男が交際を強要し、女から断られた腹いせに女の目に酸を浴びせて失明させたのです。
イランの裁判所は、男にも同じことをする、という罰を下しました。
イランは昔、ペルシャと言い、ハムラビ法典のハンムラビ王は今のイラク、バビロニアの王で、ちょっと場所がずれるのですが、いや~、妙に感動しました。
とにかくやることがシンプルでストレートでなんといっても分かりやすいですよね。
おかげで心のどっかで納得している自分がいるんです。
今の日本国憲法では、こんなのは残虐な刑罰として一切禁止されています(とはいうものの、それよりもっとおそろしい死刑制度は残虐な刑罰ではない、と最高裁は言ってますが)。
こういう誰にでも分かる刑罰って、良いもんだという思いが強いです。
そう言うと人権派に怒られます。亀井静香氏からも。
でも、被害者のことを第一に考えるべきです。その後に社会の安全、そうして最後の最後に、果たしてこんな刑罰を科すことが許されるか、憲法の人権尊重主義からはみ出していないか、と考えるべきです。
あの~、法律論になると急に~すべきである、というふうに『べき』論になってしまいます。これは仕方のないことですが、やはりなんだか窮屈になってしまいます。
ところで昨夜行政法で原子炉もんじゅの設置許可処分無効確認訴訟の判例を読んでいたところ、『直截的で』という漢字が判決文に出てきました。
みなさんはこの漢字をどう読みますか。
2008年12月17日水曜日
国家を肌で感じるとき
きょうの民事裁判実務、裁判官であるI先生の話を聞いていると、現役裁判官が実際に裁判をしている現場の臨場感を感じます。それはまさに国家意思の発動です。国家の持つ権力、柔らかく言うと統治権が現実に働く姿を肌で感じました。
別に怖ろしいことをやっているというのではなく、裁判という作用もまた国家権力の行使なんだなあ、そしてほとんどの裁判官はこの権力を慎重な上にも慎重に行使しているということがよくわかりました。
なぜなら国民の権利を国家によって剥奪、否定するか否かのぎりぎりの決定(これってものすごく怖ろしいことですよ)を日々行っているのが彼ら生身の裁判官だからです。
翻って国家機関をぐるっと見渡すと、国家意思決定を自ら単独で行っているのは裁判官くらいのもんです。他の公務員は総理大臣からしてみんな集団的意思決定を隠れ蓑にして責任回避をしていますが、こと裁判官に限っては(単独事件と最高裁判所に限ってですけど)一人責任を負っています。
これはそうとう辛いです。
きょうのI先生の話からわたしが嗅ぎ取ったのはそういう覚悟、でした。
まあ、ジャンルは違いますが、イチローとにているところが大いにあります。
どちらも隙を見せない、日々努力する、努力する姿を人に見せない、そして他人にも自分にも責任を負っていることを自覚しているからです。
裁判官をべた褒めしているように見えますが、実際、これほど厳しい職業は滅多にないと思いました。
昨夜は夜中の3時半までかかって行政法の予習をやってました。興奮してその後布団に入っても寝付けませんでした。
で、今日ロー内のネットを開けてみると、なんと授業予定が変更に!こんにゃろ~っ。
がっくりもいいとこです。
また今夜も半徹夜か~。しかも、ゼミのコンパもやることになりわたしがセッティング担当になってしまい、場所探しに苦闘。だって24日にやるのでどこも予約でいっぱいだもので。
好事魔多し。いや、まだ好事も来ていないのに魔ばっかしですわ。
わてほんまによ~いわんわー、と笠置静子が歌ってましたねー、って、知ってる人はほとんどいないよなあ。
写真はこの前の日曜日、天神中央公園でやってた京筑(けいちく)地方物産展、行橋あたりです。子供達の舞が良かった。このあたりでは未だに奈良時代の地名が多く残っています。
また、この写真を思い出したのは、公園の向こうに見える白い建物が、済生会病院で、美空ひばりさんはここに入院していたからです。つまり、笠置静子からひばりを連想したと言うわけです。
2008年12月16日火曜日
いよいよ年末?
今日受けた刑訴と民事弁護論はこれで今年最後の授業でした。
先生がそう告げたとき、ぴんと来ませんでした。暑さのせいだと思いました。
とても年末気分じゃないです。
街もなんか盛り上がりに欠けるという感じ。キンキンに凍った空気の中でこそイルミネーションも映えるというものです。
今日受けた二つの授業、どちらもバッチシ当たりました。どちらも簡単な問題で、ある意味物足りないくらいでした。
今週末のクラスコンパ、集まりが悪いそうです。今日やったゼミのみんなに、クラスコンパに出るか聞いたところ、誰も出ないとのこと。落胆しました。
逆に彼らは、今のこのゼミ生だけの飲み会なら参加する、と。う~む。どう考えるべきか悩むところです。
昨夜11時頃机で寝ていたところ、O君から電話で起こされ、その後今日のための相続法の予習に時間が掛かり、布団で寝たのが3時半。うたた寝をしたせいで久しぶりに布団の中で悶々としてました。いつもは3分以内に眠り込むのですが。
早寝早起きが一番能率的なんですが、ついつい夜の勉強の取りかかりが遅くなってしまいます。
2008年12月15日月曜日
専門家「?」、考古学調査で「スイス製腕時計」出土―広西 2008/12/15(月) 10:21:30 [サーチナ]

エライコトが起きました。オーパーツが発掘されたんです。
SF小説、タイムパラドックスを地でいく驚くべき事件です。
まあ、このサーチナの記事を読んでみてください。これって本当に本当のことなんでしょうか。 どきどきわくわくしました。
14日付新文化報によると、広西チワン族自治区防城港市の上思県で11日、明代(1368-1644年)から清代(1644-1912年)のとされる墓を発掘していたところ、「スイス製」と刻まれた腕時計の模造品が見つかった。関連写真:そのほかの広西チワン族自治区に関する写真 同遺跡からは10月下旬、石灰石、砂、米などを練り合わせて作った「三合土」製の大型棺が出土し、広西チワン族自治区では初めての例として注目された。 「腕時計」が見つかったのは棺室内。棺とは別に、約5キログラムの「三合土」があり、その底部の土を取り除く作業を進めていたところ、泥まみれの状態で見つかった。形状や大きさから、腕時計を模した指輪とみられている。 腕時計は外部が銅製で、針は10時6分を示している。泥をぬぐうと「スイス製」の文字が浮き出た。 専門家によると、副葬品と考えるにしても、現地には金属でミニチュア品を作る習慣はない。なにより不思議なのは時代が合わないことで、世界で初めて腕時計が作られたのは1904年で、(1918年説もある。スイス製腕時計が中国に伝わったのは、数十年前とされている。 墓の年代とは明らかなへだたりがあり、現在のところ、なぜ「腕時計」があったのかは、理解に苦しむ謎という。 「遺跡から“腕時計”」のニュースは各メディアが注目し、ウェブサイトにも次々に掲載されている。写真は古美術や文化財の専門サイト、中国文物網が掲載した同記事。(編集担当:如月隼人)
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